今から数ヶ月前の夏の暑い盛りの頃の話。
　私は、夕刻、例によって日課の散歩に出かけた。
　１時間ほど歩いた終盤に、そのコースを歩いたときには必ず立寄るとっておきの小さな公園がある。
　その公園は小高い丘の上にあり、そこからは辺りが一望できる。特に気に入っているのは、そこから直線距離にして４００mほど先にある、マッチ箱のような小さな私の家を遠望できるからでもある。
　そのときもすでに夕闇が迫り、家々にはちらほら明かりが点き始めていたのをぼんやりと見渡していた。
　辺りには誰もいないと思っていたのだが、
「この辺は坂が多いですねー」
　と、背中の方で声がした。
　振り向くと、スーツを着た精悍な感じの小柄な若者が、ビジネスカバンを下げて立っていた。
　
　その後、雑談してその若者の正体をまとめれば、某有名私立大学を今年卒業、中堅の不動産会社に就職、営業部門に配属、このたび駅前にその会社が建てているマンションの販売担当として、この近隣の家々に飛び込みセールスをしている、ということであった。
　また、セールスは一に体力二に体力と教えられ、自分は学生時代ラグビーをやっていて足腰には十分自信があるつもりだったが、こう坂が多いとやはり疲れる、同じ営業にまわされても場所によってずいぶん違う、などとやや泣きも入っていた。
　帰り際にその若者が、自分の名刺を是非もらってくれと私に差し出したのだが、名刺の名前を見て、そういえばその大学のウイングにそんな選手がいたと言う記憶が蘇ってきたほどの有名選手であった。

　ところで、若者との雑談は、若者の正体を知るだけでは終わらなかった。
　その泣きの入ったセールスマンを見て、私は興味と同情を抱いたので、ややからかい気味ではあるが以下の会話をした。
「ほんと、この暑いのにご苦労さんだねー！ところで、１日にどのくらい訪問するの？」
「はい、７０〜８０軒です」
「そう、それでどのくらいの家が興味を持ってくれるの？」
「そのうちの５％ぐらいですね」
「ということは３〜４軒か、それで成立率は？」
「まだ1軒もないです。なかなかうまく行きません。どうしてなんでしょうねー、先輩達はすでに何軒か決めているのですが……」
「そうか、まだ一軒もねぇ、それにしても数千万の売り物だからなー。そうだ、君ねぇ、ゴムひもを売る研究したらいいよ」
「はあ、ゴムひもですか？」
　と彼は怪訝な顔をした。
「パンツのゴムひも、と言っても分からないか。昔ね、パンツのゴムひもがよく伸びきってしまうので、ゴムひもを家庭訪問して売っていた人たちがたくさんいたんだ。何の変哲もない、誰にでも扱える、何処にでもある商品を扱って、それでも売れるセールス力を身につければ鬼に金棒さ。数千万円の商品も数百円の商品もセールスする根本は同じということ。会社の商品力に頼っているようではまだまだだね」
「そうですか、どうしたらセールス力がつくのですか？」
「だからさー、寅さんだよ、男はつらいよのフーテンの寅さんが大道でやってるあれだよ。『四谷赤坂麹町、ちょろちょろ流れる御茶ノ水、粋なねーちゃん立ち小便』ってやつ。寅さんが売ってる商品に商品力などないんだよ、あるのは寅さんのセールス力だけさ」

　とまあ、やや禅問答風な会話をしたのだが、最後に、寅さん流に言えば、
「失礼ですが、あんさんはどちらのお身内の方ですか？」
と若者が聞いてきたのだが、
「昔、にいさんと同じ稼業をしていたもの」
とだけ答えておいて、
「ついでだから宿題を出してあげよう。エスキモーに冷蔵庫を売るにはどうしたらいいか。また、麦藁帽子は売れるか。アフリカの未開の裸足の土人（失礼）に最先端のイタリアンデザインのシューズを売るには？」
と言ってその若者と別れたときには、辺りはすっかり薄暗くなり、すでに我家にも明かりが点いていた。

　少々冗談が過ぎたかもしれないが、私は、優秀なセールスマンとはそういうものだ、と心得ている。

-つづく-

平成１7年　１２月　１日　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　DOKKOU著